このブログについて

【サービス】漢字の正しい筆順を調べよう!!

近代という時代が訪れて以降、近代的自我を中心に「人間」が「個人」へと変遷する過程においても、依然として人にとって価値あることというのは、人の持つ「善性」を体現した「立派な個人」であることに変わりはなかった。そうあるために人々はより良い人格の形成こそが重要であると考えるようになり、それを果たす目的で施されたのが教養教育(リベラルアーツ)なのであった。

一方で「教養」とは「高度な知識」のことであり、それは「情報」が人のフィルターを通して「知識」となるのと同様に、「知識」がより優れた人格を通じて「教養」にまで高められるというふうに、教養に重きを置いて考える人たちの間では理解されているようである。知識基盤社会で求められる教養が人格主義と結びついて語られる理由はここにある。

ただ、ここで一つ問題が発生する。

というのも、「教養教育」の文脈においては、教養を身につければその結果、より良い人格の形成が計られると考えるが、その身につけさせられようとしている教育内容である教養は、単なる知識ではなく既に「より優れた人格」を通じて高められたものとしての教養であると考えられるわけだから、ここには俗に言う「卵が先か、鶏が先か」のような問題が包含されているわけである。

それでは、文学とは何か。それについて、答えを持っている人は幸せである。なぜなら、そのような問いを立てる人は不幸な人であるから。とすると、答えを持っている人とは永遠に話が噛み合うことはなかろう。なぜなら、その答えだと信じられているものには疑いの目が向けられていないからだ。逆に言えば、批判にさらされていないからこそ、答えは答えとして存在できているというわけだ。

具体的に、文学についてわかっている者が作家であり文学愛好家であるというならば、文学をわかっていない者は読書習慣の無い人々と、その人たちとは対照的に、職業的に読書を強いられている文芸批評家ということになるのだろう。読書習慣の無い人はともかく、作家や愛好家が極当たり前のように感じている事柄を、批評家というのは当たり前のように感じられないわけであるから、極めて愚鈍な存在ということになるであろう。しかしその鈍感さが、健全なる批判的精神から由来するものであれば、一転してそれは学術的、科学的な精神態度として聡明なる評価が下されるということもある。一発逆転である。ここに文芸批評家が手に入れることのできる痛快な爽快感が生じる基点がある。

ともあれ、本ブログは、「文学」という《荒(あら)ぶるもの》と「教養主義」という《賢(さか)しきもの》といった本来の出自を異にするもの同士が、近代以降に良き出逢いをし、蜜月状態に至った理由に迫ることを目的とする試みである。

宜しければ、ご感想を一言、お寄せください。mail

copyright(c) 2013 – 2020
by UKEYO WAXCA all rights reserved.